伊藤博文 年表
baku 幕末年表 matu より 伊藤博文の名前が出ている項目を抜粋しました。

天保十二年 1841


  9月 2日 伊藤博文 周防熊毛郡に生まれる

嘉永六年 1853

  1月12日 伊藤利助 藩公祈念祭連歌の会の給仕として働き始める(2/21まで)

安政三年 1856

    ?    伊藤利助 来原良蔵の従者として相模の警備に付く

安政五年 1858

    ?    伊藤利助 萩に戻り「松下村塾」に出入りを始め俊輔と名乗る
  6月     伊藤俊輔 山県狂介らと京に入る
  7月     伊藤俊輔 萩に戻り来原良蔵と長崎に行く

安政六年 1859

    ?    伊藤俊輔 萩に帰る
 10月11日 桂小五郎 伊藤俊輔を連れ江戸に入る
 10月29日 桂小五郎、伊藤俊輔、飯田正伯、尾寺新之允 吉田松陰の遺体を千住回向院に埋葬
文久元年 1861

  9月30日 高杉晋作 桂小五郎、伊藤俊輔の訪問を受ける

文久二年 1862

  7月     長州藩世子、毛利定広 京より江戸に向う 桂小五郎、伊藤俊輔同行
    ?    伊藤俊輔 萩に帰国、来原良蔵の遺髪を遺族に渡す
    ?    伊藤俊輔 京に入る
 10月     伊藤俊輔 彦根藩探索に向う
 11月23日 桂小五郎、伊藤俊輔 江戸に入る
 12月21日 伊藤俊輔 幕府和学講談所、塙次郎を殺害

文久三年 1863

  1月     伊藤俊輔 入江九一の妹すみ子と縁談が調う
  3月     伊藤俊輔 京に入る
  3月20日 伊藤俊輔 長州藩士分に取り立てられる
  3月25日 桂小五郎、伊藤俊輔 兵庫在中の毛利定広に将軍東下阻止を報告
  4月     桂小五郎、伊藤俊輔 江戸に入る
  4月18日 毛利敬親 井上聞多、伊藤俊輔らに英国行きの許可を出す
  5月10日 伊藤俊輔 父十蔵に洋行を知らせる手紙を書く
  5月12日 長州秘密留学生 横浜出港
  5月17日 長州秘密留学生 上海入港 井上聞多、伊藤俊輔「ペガサス号」に乗り換える
伊藤博文

伊藤博文

元治元年 1864

  3月     長州秘密留学生 井上聞多、伊藤俊輔、帰国に向う
  6月10日 井上聞多、伊藤俊輔 横浜入港 英国領事ガウー訪問
  6月11日 井上聞多、伊藤俊輔 英国公使オールコック訪問 長州藩主宛の覚書を託される
  6月20日 井上聞多、伊藤俊輔 英国軍艦「パロサ号」で横浜を出港、山口に向う アーネストサトウ同乗
  6月23日 井上聞多、伊藤俊輔 姫島沖で「バロサ号」下船
  6月24日 井上聞多、伊藤俊輔 山口政治堂に入り攘夷戦争の中止を懇願
  7月 2日 伊藤俊輔 母に手紙と金を送る
  7月10日 伊藤俊輔 桂小五郎に手紙を書く
  7月17日 伊藤俊輔 妻すみ子に京に行くと手紙を書き出発
  7月20日 伊藤俊輔 備前で引揚げ途上の品川弥二郎より敗戦を聞き三田尻に行く
  7月27日 伊藤俊輔 妻すみ子に入江九一の死を悼む手紙を書く
  8月 4日 高杉晋作、伊藤俊輔 山口政事堂で和平交渉役を命じられる
  8月 5日 高杉晋作、伊藤俊輔 下関に向う途中船木で開戦を報せに山口に行く井上門多と会い山口に引き返す
  8月 8日 高杉晋作、伊藤俊輔 船木の藩主に親書を出すようにと報告後、藩内攘夷派より逃れるため雲隠れ
  8月27日 アーネストサトウ 下関奉行所を訪問、伊藤俊輔サトウに洋食を提供

慶応元年 1865

  3月24日 高杉晋作、伊藤俊輔 長崎に向う
    ?    高杉晋作、伊藤俊輔 長崎グラバーより下関開港を進言される
  4月12日 中岡慎太郎 井上聞多、伊藤俊輔と会談
  4月26日 伊藤俊輔 桂小五郎の手紙を受け取り桂と会見
  4月29日 中岡慎太郎 村田蔵六、伊藤俊輔と会談
  5月14日 桂小五郎 伊藤俊輔と山口で藩主に謁見
  5月16日 伊藤俊輔 岩国へ行く
  6月 2日 伊藤俊輔 桂小五郎に武器購入について手紙を書く
  7月16日 井上聞多、伊藤俊輔 下関より長崎に向う
  7月18日 井上聞多、伊藤俊輔 大宰府に入る
  7月21日 井上聞多、伊藤俊輔 長崎に入り小松帯刀に会い援助を依頼
  8月 6日 伊藤俊輔 グラバーと交渉、商船一隻、砲艦二隻を買付け
  8月26日 伊藤俊輔 「ユニオン丸」で下関入港 近藤長次郎、長州藩主に謁見
  8月     伊藤俊輔 薩摩汽船「胡蝶丸」でミニエー銃四千丁、ゲーベル銃三千丁を三田尻に回送
 10月14日 坂本龍馬、木戸貫治、高杉晋作、井上聞多、伊藤俊輔 会談
 12月26日 伊藤俊輔 武器調達のため長崎に入る

慶応二年 1866

  1月     伊藤俊輔 下関に入る
  2月21日 伊藤俊輔 木戸貫治に鹿児島行きについて手紙を書く
  2月27日 長州藩 高杉晋作、伊藤俊輔を親書伝達の使者として鹿児島に派遣することを下命する
  3月     伊藤俊輔 妻すみ子と離婚
  3月21日 グラバー 横浜より下関入港、高杉晋作、伊藤俊輔その船に便乗長崎に向う
  4月 8日 伊藤俊輔 下関に入る
  4月14日 伊藤俊輔 梅子と婚姻
  4月22日 長州藩 高杉晋作、伊藤俊輔に洋行の許可を出す
  6月 4日 パークス 英艦三隻と鹿児島に向う途中、下関に寄港し高杉晋作、伊藤俊輔と会見
  7月 3日 伊藤俊輔 下関より長崎に入りグラバーより汽船2隻購入の契約を結ぶ 五代才助にも交渉し薩摩名義で
    ?    伊藤俊輔 大村藩士、渡辺昇と大村へ行く
  7月20日 伊藤俊輔 大村藩士、渡辺昇と下関に入り高杉晋作に紹介
  7月28日 伊藤俊輔にグラバーより契約の汽船二隻が幕府の強制買入れになったと連絡が入る
    ?    伊藤俊輔 村田新八と長崎に行く
    ?    伊藤俊輔 村田新八と上海に行き汽船二隻購入の契約を結ぶ
  8月26日 伊藤俊輔 下関に帰り汽船購入を藩に報告
    ?    伊藤俊輔 病気で寝込む

慶応三年 1867

  1月18日 伊藤俊輔 下関の妻梅子に手紙を書く
  3月 9日 伊藤俊輔 三十人取りに昇進
  3月     伊藤俊輔 幕府内偵のため京に向う
  4月13日 伊藤俊輔 京に入る
  5月     伊藤俊輔 山口で長州藩主に京の状況を報告
  8月 7日 木戸準一郎、伊藤俊輔 山口より長崎に向う
  9月12日 アーネストサトウ 長崎領事館で木戸準一郎、伊藤俊輔と会見
  9月20日 坂本龍馬 下関で三吉慎蔵にお龍を預け伊藤俊輔と会う 木戸準一郎に手紙を書く
  9月26日 伊藤俊輔 長崎に向う
    ?    伊藤俊輔 グラバーと汽船一隻購入の契約を結ぶ
 10月22日 伊藤俊輔 妻梅子に手紙を書く
 12月     伊藤俊輔 英艦「ロドニー号」で三田尻入港

明治元年 1868

  1月12日 伊藤俊輔 兵庫に入る
    同    伊藤俊輔 神戸事件の件でパークスと会見し三日の猶予を求める
    ?    伊藤俊輔 大坂で東久世通禧に会い列国に筋を通し神戸事件解決と進言
  1月14日 東久世通禧、伊藤俊輔 兵庫でパークス、ロッシュに明治天皇の通達と新政府方針を伝える
  1月17日 伊藤俊輔 外国事務掛になる
  1月19日 木戸準一郎 大坂に入り伊藤俊輔と会う
  1月25日 伊藤俊輔 参与職外国事務掛になる
  2月 1日 伊藤俊輔 妻梅子に近況を知らせる手紙を書く
  2月20日 伊藤俊輔 微士参与職外国事務局判事に任命される
  4月19日 伊藤俊輔 神戸開港場外国事務一切を委任するとの辞令を受ける
閏 4月 8日 木戸準一郎 伊藤俊輔に最近の働きぶりを褒める手紙を書く
  5月 6日 伊藤俊輔 従五位下に任じられる
  5月23日 伊藤俊輔 初代兵庫県知事に任命
  8月 4日 伊藤梅子 次女、生子出産
    ?    伊藤俊輔 博文と改名
 10月17日 伊藤博文 東征の軍隊を近衛兵とする建白書を太政官に提出
 10月22日 伊藤博文 木戸準一郎に大久保利通と共に東京に永住し新政府を確立すべしと手紙を書く
 11月     伊藤博文 版籍奉還を太政官に建白

 伊藤町筋
伊藤町筋 伊藤博文が初代兵庫県知事だった名残りです。



神戸市中央区旧居留地


2006年6月3日撮影

明治二年 1869

  1月     伊藤博文 太政官大坂出張所の陸奥宗光を通じ六ヶ条の建白書を朝廷に提出
  3月18日 伊藤博文 東京勤務を命じられる
  4月10日 伊藤博文 兵庫県知事を罷免され同県判事に格下げされる
  4月29日 伊藤博文 東京に向う
  5月     伊藤博文 東京に入る
  5月16日 伊藤博文 今までの職を免じられ会計官権判事になる
  7月     伊藤博文、陸奥宗光、中島信行 上京し廃藩置県の意見書を提出
 11月     伊藤博文 鉄道建設を建白

明治三年 1870

  11月 2日 伊藤博文 貨幣制度、金融機関調査のため横浜で米国汽船「アメリカ号」乗船、サンフランシスコに向う
  11月27日 「アメリカ号」サンフランシスコ入港
  12月 3日 伊藤博文 大陸横断鉄道でワシントンに向う
  12月10日 伊藤博文 ワシントンに入る
  12月12日 伊藤博文 グラント大統領に謁見

明治四年 1871

  5月 9日 伊藤博文 横浜に帰港

明治五年 1872

  2月12日 大久保利通、伊藤博文 全権委任状を得るため帰国に向う
  3月24日 大久保利通、伊藤博文 帰国、東京で全権委任状の交付を願い出る
  5月17日 大久保利通、伊藤博文 寺島宗則を連れ横浜より乗船ワシントンに向う
  6月17日 大久保利通、伊藤博文 ワシントンに入る

明治六年 1873

  1月 2日 伊藤博文 大隈重信、副島種臣に米英仏の様子を報告
  1月 9日 伊藤博文 井上馨に諸外国が望んでいるのは通商の利益だと手紙を書く
  4月12日 伊藤博文 妻梅子に手紙を書く
  9月13日 岩倉使節団 横浜に入り帰国、岩倉具視、伊藤博文 東京に入り参内、明治天皇に帰国の挨拶をする
  9月24日 岩倉具視 大久保利通、伊藤博文を招き内政中心を確認
  9月25日 伊藤博文 木戸孝允を訪問し協力を要請、岩倉具視と協議後、大久保利通に報告
 10月10日 伊藤博文 大久保利通に手紙で木戸孝允との面会を要請
    同    大久保利通 木戸孝允を訪問し方針を打ち合わせ後、伊藤博文に報告
 10月20日 木戸孝允 岩倉具視に伊藤博文の参議採用を願う手紙を書く
 10月25日 大久保利通、大隈重信の辞表戻され伊藤博文、勝海舟、寺島宗則参議に任命される
 10月26日 大久保利通 伊藤博文、大隈重信を自邸に招き今後の政府運営を協議
 11月 8日 伊藤博文 木戸孝允を訪問
 11月17日 伊藤博文 木戸孝允を訪問し大蔵卿を打診するが拒否される
 11月24日 木戸孝允 伊藤博文に薩摩に対する恨みを書いた手紙を出す

明治七年 1874

  1月18日 伊藤博文 木戸孝允に土佐を警戒するようにと手紙を書く
  2月 8日 木戸孝允 伊藤博文に時局を嘆き辞意の固いことを手紙で伝える
  4月10日 木戸孝允 伊藤博文を訪問し台湾問題を質問
  8月 2日 伊藤博文 臨時に内務卿を兼務
 11月     伊藤博文 下関に入る
 11月28日 大久保利通 伊藤博文邸を訪問

明治八年 1875

  1月17日 伊藤博文 下阪の許可を得る
  1月19日 伊藤博文 大阪に向う
  1月22日 伊藤博文 大阪に入る
  1月23日 伊藤博文 大久保利通を訪問
  1月25日 伊藤博文 木戸孝允を訪問し出馬を願い了承を得る
  1月27日 木戸孝允 伊藤博文を訪問
  1月29日 伊藤博文 大久保利通、木戸孝允と会談し板垣退助を内閣に迎える事で合意
  2月11日 大阪会議 大久保利通、木戸孝允、板垣退助、伊藤博文、井上馨 会談
  2月24日 木戸孝允、伊藤博文、井上馨 東京に入る
  3月 6日 三条実美邸で大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、板垣退助会談
  3月13日 木戸孝允 自邸に大久保利通、板垣退助、伊藤博文、井上馨を招き三権分立を議論
  3月17日 木戸孝允、大久保利通、板垣退助、伊藤博文 政体取調委員になる

明治十年 1877

  1月30日 伊藤博文 京に向う
  2月 7日 大久保利通 伊藤博文に天下は瓦解してしまう恐れありと手紙を書く
  2月17日 三条実美 大久保利通、木戸孝允、山県有朋、伊藤博文を集め前後策を協議
  3月21日 木戸孝允 伊藤博文に戦況を憂う手紙を書く
  3月22日 伊藤博文 木戸孝允に自分が知っている戦況を報告
  4月13日 陸奥宗光 伊藤博文を訪問
  4月15日 伊藤博文 大久保利通に山口の近衛兵の集まりが悪いと手紙で報告
  5月26日 伊藤博文 陸奥宗光に木戸孝允の死を知らせる手紙を書く
  7月28日 明治天皇 京を出、神戸より乗船、東京に向う 伊藤博文追従
  9月24日 黒田清隆 伊藤博文に血涙を流すほどだと手紙を書く

明治十一年 1878

    ?    大村益次郎の顕彰碑 鋳銭司に建立 有栖川宮、三条実美、伊藤博文他70余名連名
  2月     伊藤博文 地方長官会議再興の建白書を提出する
  3月 5日 伊藤博文 地方長官会議議長を任命される
  5月14日 大久保利通 伊藤博文に参内を促す手紙を書く
  5月15日 伊藤博文 内務卿に任じられる
  6月 6日 伊藤博文 川路利良に植木枝盛についての返信を書く
 12月 4日 伊藤博文 琉球の領土問題について三条実美に建白書を送る

明治十二年 1879

  7月22日 伊藤博文、西郷従道 避暑のため日光に滞在中のグラントを訪問し琉球問題の調停を願う
  9月 2日 安重根 朝鮮黄海道海州に生まれる

明治十三年 1880

 12月14日 伊藤博文 憲法設定、国会開設についての意見書を提出

明治十四年 1881

  1月12日 大隈重信 熱海滞在中の伊藤博文、井上馨を訪問
  6月22日 伊藤博文 立憲政治の意見を奏上
  7月 4日 大隈重信 伊藤博文を訪問
  9月29日 伊藤博文 黒田清隆を訪問
 10月 8日 伊藤博文 岩倉具視に国会設立に関する手紙を書く

明治十五年 1882

  3月 3日 明治天皇 伊藤博文を呼び憲法調査の勅書を渡す
  3月 6日 芝、紅葉館で伊藤博文一行の送別会
  3月14日 伊藤博文一行 勅命による憲法調査のため横浜を米船「ゲーリック」で出港
  3月22日 伊藤博文一行 香港に入る
  4月 2日 伊藤博文一行 シンガポールに入る
  4月22日 伊藤博文一行 スエズに入港
  4月29日 伊藤博文一行 アレキサンドリアに入る
  5月 3日 井上馨 伊藤博文に板垣退助遭難など国内の事情を手紙に書く
  5月 5日 伊藤博文一行 ナポリに入る
  5月 7日 伊藤博文一行 ローマに入る
  5月16日 伊藤博文一行 ベルリンに入る
  5月17日 伊藤博文 駐独公使、青木周蔵とビスマルクを訪問
  6月 6日 伊藤博文 妻梅子にベルリンの様子などを手紙に書く
  6月15日 山県有朋 伊藤博文に国内事情を知らせる手紙を書く
  8月11日 伊藤博文 岩倉具視に憲法に関する考え方を手紙に書く
  8月28日 伊藤博文 ベルリンの宮殿で皇帝ウィルヘルム一世に拝謁
  8月30日 伊藤博文 パリに入り有栖川宮に欧州の現状を報告
  9月     森有礼 パリで伊藤博文と会談、教育論で合致
  9月30日 伊藤博文 ウィーンに入る

明治十六年 1883

  1月     伊藤博文 井上馨に条約改正は困難と手紙を書く
  5月 2日 伊藤博文 パリに入る
  5月27日 伊藤博文 モスクワでロシア皇帝戴冠式い出席
  6月23日 伊藤博文 ローマに入る
  6月26日 伊藤博文一行 ナポリより仏船「タイナス号」乗船帰国に向う
  7月     伊藤博文一行 上海で岩倉具視の訃報を聞く
  8月 4日 伊藤博文一行 横浜入港
  8月 5日 明治天皇 伊藤博文に慰労の酒肴を送る
  8月 6日 伊藤博文 参内し明治天皇に憲法調査、露皇帝戴冠式などを報告
  9月19日 伊藤博文 立憲政治の腹案を奏上

明治十七年 1884

  3月17日 伊藤博文 憲法制度取調局長官になる
  3月21日 伊藤博文 宮内卿を兼務

明治十八年 1885

  2月24日 伊藤博文 天津に派遣されることが決まる
  2月28日 伊藤博文 横浜出港
  3月14日 伊藤博文 天津に入る
  3月     伊藤博文 北京に入る
  4月 1日 伊藤博文 天津に戻る
  4月 4日 伊藤博文 李鴻章と交渉に入る
  4月18日 伊藤博文 天津条約を結ぶ
  4月19日 伊藤博文 天津を出る
  4月28日 伊藤博文 横浜入港後、参内し明治天皇に報告
  7月 3日 オーストリヤ公使、西園寺公望 伊藤博文に手紙を書き陸奥宗光の猛勉振りを伝える
  7月 7日 明治天皇 高輪、伊藤博文邸を臨幸
  7月26日 明治天皇 九州巡幸に出発 伊藤博文随行
 12月22日 官制大改革、新内閣制度発足 内閣総理大臣兼宮内大臣、伊藤博文 外務大臣、井上馨 内務大臣、山県有朋
                  大蔵大臣、松方正義 陸軍大臣、大山巌 海軍大臣、西郷従道 司法大臣、山田顕義 文部大臣、森有礼
                  農商務大臣、谷千城 通信大臣、榎本武揚 内閣書記長官、田中光顕 法務局長官、山尾庸三

明治十九年 1886


  1月15日 オーストリヤ公使、西園寺公望 伊藤博文に手紙を書き陸奥宗光を政府に採用するように進言

明治二十年 1887

  1月15日 伊藤博文 総理大臣官邸で夜会開催
  3月12日 伊藤博文 参内し国防資金調達を奏上
  3月23日 伊藤博文 鹿鳴館に地方長官を集め各地の有志より海防献金を集めることを要望
  4月20日 伊藤博文 総理大臣官邸で大仮装舞踏会開催
  5月29日 伊藤博文 辞表を提出するが明治天皇却下
  6月 4日 伊藤博文 夏島の別荘落成
  6月 9日 伊藤博文 夏島より妻梅子に手紙を書く
  7月16日 伊藤博文 夏島より上京
  7月23日 明治天皇 伊藤博文を呼び外務省の秘密主義を批判
  8月13日 伊藤博文 夏島より上京し井上馨に会い大隈重信の入閣に賛成
  9月16日 伊藤博文 参内し内閣改造を奏上
  9月17日 伊藤博文 外務大臣を兼任 土方久元、宮内大臣 黒田清隆、農商務大臣
 11月 1日 伊藤博文 広島、長崎、鹿児島、沖縄の海防巡視を命じられる
 11月 8日 伊藤博文 海防巡視のため横浜を出港
 12月17日 伊藤博文 帰京し明治天皇に視察の状況を報告

明治二一年 1888

  1月10日 伊藤博文、大隈重信 富貴楼で会見
  4月     大日本帝国憲法草案完成 伊藤博文、明治天皇に奉呈
  4月     伊藤博文 辞任
  4月     伊藤博文 新設の枢密院議長に就任
  8月     伊藤博文 朝鮮、ウラジオストク巡視に出発
  9月     陸奥宗光 伊藤博文に米国議会政治の実情を手紙で報告
  9月24日 伊藤博文 ウラジオストクに入る

明治二二年 1889

  2月11日 伊藤博文 旭日桐花大綬章を受ける
  2月15日 伊藤博文 枢密院議長官舎に全国府県会議長を招き憲法制定の趣旨を説明
 10月11日 伊藤博文 辞表を提出するが受理されず
 10月19日 黒田清隆、山県有朋、後藤象二郎、伊藤梅子 大隈重信を見舞う
 10月20日 伊藤博文 大隈重信を見舞う
    同    伊藤博文 辞表を提出
 10月30日 伊藤博文 枢密院議長を免じられ宮中顧問となる
    ?    伊藤博文 陸奥宗光に電報を打ち帰国を要請

明治二三年 1890

  5月14日 明治天皇 伊藤博文に詔書を送る
 10月24日 伊藤博文 貴族院議長になる

明治二四年 1891

  4月 9日 山県有朋 伊藤博文を後任に推薦
  5月12日 伊藤博文、黒田清隆 大津事件の処理のため品川駅より汽車で京に向う
  5月13日 伊藤博文、黒田清隆 京に入り常盤ホテルのニコライ皇太子を見舞う
  5月21日 明治天皇 京より東京に向う伊藤博文同行
  6月 1日 伊藤博文 二度目の枢密院議長に就任
 10月 3日 陸奥宗光 伊藤博文に傍観せずに中央に出るよう書簡を送る

明治二五年 1892

  1月22日 伊藤博文 参内し意見を奏上
  6月14日 松方正義 伊藤博文を後継に推薦して辞意を表明
  8月 8日 第二次伊藤内閣成立 司法大臣、山県有朋 通信大臣、黒田清隆 内務大臣、井上馨 農商務大臣、後藤象二郎
                        陸軍大臣、大山巌 外務大臣、陸奥宗光の元勲内閣の誕生
 11月27日 伊藤博文 馬車の事故で重傷
 12月 1日 第四議会開会 伊藤博文、条約改正決行の必要性を演説

明治二六年 1893

  2月 3日 伊藤博文 慰問のお礼に参内
  2月 5日 大村益次郎の銅像 靖国神社に建立
  2月 9日 伊藤博文 参内し建艦を進めることを請願
  7月19日 伊藤博文、陸奥宗光と参内し条約改正の御裁可を得る

明治二七年 1894

  1月 2日 陸奥宗光 伊藤博文に書簡で昨日の各国公使面談の様子を伝える
  5月16日 第六議会 伊藤博文、条約改正は政府の一大義務と施政方針演説
  6月14日 伊藤博文 閣議で清国政府と協力の方針を計る
  6月30日 伊藤博文 英国に依存したほうがよいのではないかと陸奥宗光に手紙を書く
  7月 1日 伊藤博文 英国艦隊が露国を牽制してくれればと陸奥宗光に手紙を書く
  7月 2日 伊藤博文 情勢を英国公使に知らせておくようにと陸奥宗光に手紙を書く
  7月28日 陸奥宗光 伊藤博文に増援を控えたいと手紙を書く
  7月29日 伊藤博文 陸奥宗光に清国の増援に対し我軍が増援を控えるのは意味がないと手紙を書く
  7月31日 伊藤博文 清国の増援部隊進発の報を受け宣戦布告を明治天皇に上奏
  8月 8日 山県有朋 司令官に任命され朝鮮に向うことになった後、伊藤博文を訪問し決意を述べる
  9月 2日 伊藤博文 参内し大本営を下関に進めることを奏上、明治天皇まず広島にと言われる
  9月13日 明治天皇 広島に向う 伊藤博文同行するが途中発病し名古屋で下車療養
  9月16日 伊藤博文 神戸に入り休養
  9月18日 伊藤博文 広島大本営に入る
  9月29日 伊藤博文 妻梅子に病気になったことを伝える手紙を書く
 10月11日 陸奥宗光 伊藤博文に外国が干渉する前に大きな戦果を上げることが肝心と手紙を書く
 11月26日 陸奥宗光 伊藤博文に米国の調停に応じる時期ではないかと手紙を書く

 日清講和条約締結の地
春帆楼

日清講和条約締結の地

春帆楼  下関市

1991年5月5日撮影
伊藤博文 陸奥宗光 銅像
伊藤博文 陸奥宗光 銅像

明治二八年 1895

  1月11日 伊藤博文、陸奥宗光 広島に向う
  2月16日 伊藤博文 臨時軍事費の追加予算案を議会に上程
  3月18日 伊藤博文、陸奥宗光 下関に入る
  3月26日 伊藤博文 広島で文武重臣会議、清国に対し無条件休戦を許すことを決める
  3月29日 伊藤博文 下関に戻る
  3月30日 伊藤博文、陸奥宗光 李鴻章の病室を訪問、21日間の休戦を取り決める
  4月17日 日清講和条約調印 李鴻章、帰国
  4月18日 伊藤博文、陸奥宗光 軍艦で下関より広島に入り明治天皇に上奏
  4月25日 伊藤博文 舞子で静養中の陸奥宗光を訪問
  4月26日 伊藤博文 「三国干渉論」を書く
  5月12日 伊藤博文 妻梅子に三国干渉について手紙を書く

明治二九年 1896

  5月13日 伊藤博文 大磯の別荘「滄浪閣」が完成し友人と落成を祝う
  5月30日 伊藤博文 台湾出張を命じられる
  6月 1日 伊藤博文 台湾へ出発
  7月11日 伊藤博文 帰国
  8月31日 第二次伊藤内閣 総辞職

明治三十年 1897

  5月 4日 伊藤博文 英国女王即位式典出席のため英国に向う
  6月 6日 伊藤博文 パリに到着
  6月21日 伊藤博文 ロンドンバッキンガム宮殿で女王に拝謁
  6月22日 伊藤博文 セントポール寺院で即位式典に出席
  8月 7日 伊藤博文 帰国に向う
  9月 5日 伊藤博文 帰国

明治三一年 1898

  1月12日 第三次伊藤内閣 発足
  6月10日 伊藤博文 議会を解散
  6月24日 元老会議 伊藤博文、政府与党の必要性を説いた後、辞表を提出
  8月19日 伊藤博文 長崎より清国に向う
  9月13日 伊藤博文 妻梅子に天津到着を知らせる手紙を書く
  9月14日 伊藤博文 北京に入る
  9月20日 伊藤博文 皇帝に拝謁
  9月26日 伊藤博文 妻梅子に政変を知らせる手紙を書く
 11月 7日 伊藤博文 長崎に入る
 12月 8日 伊藤博文 東京に入る

明治三二年 1899

  4月10日 伊藤博文 長野で政党創立の必要を演説
  5月17日 伊藤博文 大分県中津で演説
  6月16日 伊藤博文 大磯に帰る
  7月16日 伊藤博文 宇都宮で講演
 10月14日 伊藤博文 北陸遊説に出る

明治三三年 1900

  9月15日 伊藤博文 立憲政友会を発足させる
 10月19日 第四次伊藤内閣 発足

明治三四年 1901

  3月19日 内閣不信任案 提出 伊藤博文、酔っ払い演説
  5月10日 伊藤内閣 閣内不一致を理由に総辞職
  9月18日 伊藤博文 横浜を出港、米国に向う
 10月 2日 伊藤博文 シアトルに到着
 10月20日 伊藤博文 ワシントンでルーズベルト大統領と会見
 10月23日 伊藤博文 エール大学創立二百年祭に出席
 10月26日 伊藤博文 ニューヨークを出港
 11月 4日 伊藤博文 パリに到着し李鴻章の訃報を聞く
 11月11日 伊藤博文 桂太郎よりしばらくパリに滞在してほしいと電報を受ける
 11月14日 林董 パリの伊藤博文を訪問し日英交渉の経過を報告
 11月23日 伊藤博文 林董より露国に入るのは英国政府が疑惑をはさむとの電報を受ける
 11月25日 伊藤博文 ペテルブルグに入る
 11月28日 伊藤博文 ニコライ二世に拝謁
 12月 2日 伊藤博文 露国蔵相と日露協商の意見を交換する
 12月 4日 伊藤博文 露国外相を訪問
 12月12日 伊藤博文 ペテルブルグよりベルリンに向かう
 12月14日 伊藤博文 ベルリンに入り独国皇帝に拝謁
 12月24日 伊藤博文 ロンドンに入る

明治三五年 1902

  1月 3日 伊藤博文 英国外相と会談
  1月 7日 伊藤博文 帰国に向う
  2月25日 伊藤博文 長崎入港
  3月 1日 伊藤博文 大磯に帰る
  3月 7日 伊藤博文 参内し露、英国の状況を報告
 10月19日 大隈重信創立の東京専門学校、早稲田大学となり開校式 伊藤博文、演説を行う
 10月26日 伊藤博文 大磯「滄浪閣」で還暦祝

明治三六年 1903

  4月     伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎、山県有朋 無鄰庵で日露開戦に踏み切る会議を開く
  6月25日 明治天皇 伊藤博文を呼び内帑金を下賜う

明治三七年 1904

  3月 7日 伊藤博文 韓国皇帝慰問大使に任命
  3月13日 伊藤博文 韓国に向う
  3月17日 伊藤博文 韓国京城に到着
  3月20日 伊藤博文 韓国皇帝に拝謁
  4月 1日 伊藤博文 帰国し明治天皇に報告

明治三八年 1905

 11月 2日 伊藤博文 韓国大使に任命
 11月15日 伊藤博文 京城で韓国皇帝に拝謁
 11月22日 伊藤博文の乗車列車に投石、伊藤博文負傷
 12月21日 伊藤博文 韓国統監に任命

明治三九年 1906

  5月22日 伊藤博文 満州問題に関する協議会を開く

明治四十年 1907

  9月21日 伊藤博文、山県有朋、大山巌 公爵に叙せられる
 12月 5日 伊藤博文 韓国皇太子と京城を出、日本に向う
 12月15日 伊藤博文、韓国皇太子 東京に入る
 12月18日 伊藤博文 韓国皇太子と参内

明治四一年 1908

  3月21日 安重根の投稿 海朝新聞に掲載される
  4月 5日 伊藤博文 韓国に向う
  4月16日 伊藤博文 韓国京城に入る
  6月19日 伊藤博文 韓国の元老、要人を集め協力を要請する演説を行う
  7月14日 伊藤博文 京城より帰国に向う
  7月21日 伊藤博文 大磯に入る
  7月24日 伊藤博文 参内し韓国の情勢を報告
  7月31日 伊藤博文 大井の恩賜館に韓国皇太子を招待
  8月31日 井上馨 重体になり伊藤博文の看病を受ける
 11月     伊藤博文 京城に入る
 11月     安重根 断指同盟結成


明治四二年 1909

  2月10日 伊藤博文 帰国
  3月     伊藤博文 道後温泉で休養
  4月10日 桂太郎 枢密院官邸で伊藤博文に韓国併合案の合意を得る
  4月12日 伊藤博文 参内し韓国問題を献策
  5月     伊藤博文 韓国統監の辞表を提出
  6月14日 伊藤博文 枢密院議長になる
  7月 1日 伊藤博文 事務引継ぎのため韓国に向う
  7月 5日 伊藤博文 京城に入る
  7月14日 伊藤博文 帰国に向う
  7月19日 伊藤博文 大磯に入る
    ?    韓国皇太子 東北北海道旅行に出発 伊藤博文、随行
  8月23日 伊藤博文 東京に入る
  9月     伊藤博文 高杉晋作の碑文を書く
 10月 9日 伊藤博文 参内し満州行きの勅許を得る
 10月11日 山県有朋 伊藤博文を訪問
 10月14日 伊藤博文 大磯より乗車、満州に向う
 10月15日 伊藤博文 下関に宿泊
 10月16日 伊藤博文 門司出港
 10月18日 伊藤博文 大連入港
    同    安重根 ポシエトよりウラジオストク行きの汽船に乗船
 10月19日 伊藤博文 大連市歓迎会で演説
 10月20日 伊藤博文 旅順に入り官民歓迎会で演説
 10月21日 伊藤博文 旅順出発
    同    安重根 ウラジオストク駅より郵便列車に乗車しハルピンに向かう
 10月22日 安重根 ハルピンに入る
 10月24日 伊藤博文 撫順炭鉱を見学
 10月25日 伊藤博文 長春に入り絶筆の詩を書く
 10月26日 伊藤博文(69歳)ハルピン駅前で安重根により暗殺される
 11月 1日 伊藤博文の遺体 横須賀に運ばれる
    同    安重根他容疑者九名 旅順監獄へ護送される
 11月 2日 伊藤博文の遺体 新橋駅に到着し枢密院官邸に入る
 11月 4日 伊藤博文 日比谷公園で国葬、大井に埋葬される
 11月13日 伊藤博文暗殺事件 関東都督府法院で審問開始

明治四三年 1910

  2月 7日 関東都督府地方法院で伊藤博文暗殺事件裁判開始
  2月 8日 伊藤博文暗殺事件 第二回公判
  2月 9日 伊藤博文暗殺事件 第三回公判
  2月10日 伊藤博文暗殺事件 第四回公判、論告求刑
  2月12日 伊藤博文暗殺事件 第五回公判、最終弁論
  2月14日 伊藤博文暗殺犯安重根に死刑判決
  2月19日 安重根 関東都督府高等法院への控訴権を放棄
  3月26日 旅順監獄で安重根の死刑執行

伊藤博文
伊藤博文
安重根
安重根
 伊藤博文銅像台座
大倉山公園 伊藤博文銅像台座

伊藤博文銅像台座

神戸市中央区大倉山公園

2004年2月19日撮影

戦争によって供出され台座のみが残っています。

明治四四年 1911

 10月     大倉喜八郎 伊藤博文の銅像を建立し大倉山公園を開設

大正十三年 1924

  4月15日 伊藤梅子(77歳)死亡

昭和三八年 1963

 11月 1日 新千円札に伊藤博文登場

baku 幕末年表 matu トップページへ
inserted by FC2 system