高杉晋作 年表 
baku 幕末年表 matu より 高杉晋作と奇兵隊の名前が出ている項目を抜粋しました。
高杉晋作 高杉晋作

高杉晋作 肖像写真
高杉晋作 銅像 高杉晋作 銅像  下関市日和山公園

1991年5月4日撮影


動かば雷電の如く、発すれば風雨の如し

高杉晋作の一生は、あまりにも短い

雷電の如く時代を駆け抜けた若者は

歴史に長く刻まれて行く
晋作通り 高台にある日和山公園を降りると

大好きな酒を飲み上機嫌な高杉晋作がいた。

この街に愛されて人々に愛されて

語り継がれていく高杉晋作を

羨ましく想わずにいられなかった。

その想いが重なって本人に無断で

私の次男に晋の字を頂いた。

この事を高杉晋作が知れば

腹を抱えて笑ってくれるだろうか

天保十年 1839


  8月20日 高杉晋作 萩に生まれる

嘉永元年  1848

 12月 6日 高杉晋作 疱瘡にかかる

安政四年 1857

    ?    高杉晋作(18歳)明倫間入学

安政五年 1858

  4月 7日 高杉晋作 椋梨藤太の訪問を受ける
  4月13日 高杉晋作 吉田松陰に遊学希望の手紙を書く
  7月 5日 吉田松陰 周布政之介に高杉晋作の江戸遊学を推薦する手紙を書く
  7月18日 高杉晋作 昌平黌入学のため江戸に向う
  8月     高杉晋作 大橋訥庵塾に入門
 11月 4日 高杉晋作 昌平黌入学
 12月11日 高杉晋作、久坂玄瑞 連名で吉田松陰に手紙を書く

安政六年 1859

  1月11日 吉田松陰 間部詮勝の暗殺自重せよとの高杉晋作、久坂玄瑞らの手紙を読む
  2月15日 吉田松陰 高杉晋作に手紙を書く
  7月     吉田松陰 高杉晋作の死生観の問いに手紙で答える
  8月23日 高杉晋作 久坂玄瑞に攘夷には富国強兵が必要と手紙を書く
 10月17日 高杉晋作 藩命で江戸より萩に向う前に桂小五郎と会見
 11月16日 高杉晋作 萩の自宅に入る
 11月26日 高杉晋作 周布政之助に吉田松陰の仇は討つと手紙を書く
 11月27日 高杉晋作、久坂玄瑞 吉田松陰の霊を弔う

万延元年 1860

  1月23日 高杉晋作 結婚
  3月 3日 高杉晋作 長州軍艦教授所に入る
閏 3月 7日 高杉晋作 藩主より蒸気機関修行のため江戸行きを命じられる
  4月13日 高杉晋作 「丙辰丸」で江戸に向う
  6月 4日 高杉晋作 萩の母に江戸到着を知らせる手紙を書く
  8月28日 高杉晋作 東北遊歴に出る 小塚原で吉田松陰の墓参をする
  9月 3日 高杉晋作 加藤有隣と会見
  9月 8日 高杉晋作 日光東照宮を見学

  9月21日 高杉晋作 信州松代城下、佐久間象山に会う、22日も
  9月23日 高杉晋作 善光寺に参拝
 10月 1日 高杉晋作 福井、横井小楠訪問
 10月10日 高杉晋作 大坂に入る
 10月27日 高杉晋作 吉田松陰の教えを実践できぬことを嘆く七言絶句を書く

 11月 8日 高杉晋作 明倫館に復帰
 12月10日 高杉晋作 明倫館指導掛になる
 12月19日 高杉晋作 江戸の久坂玄瑞に手紙を書く


文久元年 1861

  3月11日 高杉晋作 長州藩世子毛利元徳の子姓になる旨の辞令を受ける
  3月13日 高杉晋作 出仕し上司同僚に挨拶廻りをする
  4月 4日 高杉晋作 入江九一の訪問を受ける

  6月10日 高杉晋作 江戸勤務を命じられる
  7月10日 高杉晋作 藩命により江戸に向う
  7月26日 桜田事変関係者に刑執行
  7月30日 高杉晋作 江戸桜田藩邸に入る

  9月 4日 高杉晋作、桂小五郎、久坂玄瑞 会談
  9月26日 高杉晋作 風邪で寝込む 桂小五郎の訪問を受ける
  9月30日 高杉晋作 桂小五郎、伊藤俊輔の訪問を受ける

 10月 6日 桂小五郎 高杉晋作を訪問

 高杉晋作寓居の跡地
高杉晋作寓居の跡地 高杉晋作寓居の跡地

魚品楼のあった場所近くです。


この辺りは特別保護区に指定されていて

京都らしい町並みが保存されています。


京都市東山区

2004年3月17日撮影
道標
高杉晋作寓居の跡地


三千世界の鴉をころし ぬしと朝寝がしてみたい

文久二年 1862


  1月 3日 高杉晋作 上海渡航準備のため江戸より長崎に向う
  4月27日 高杉晋作 「千歳丸」に乗船
  5月 3日 高杉晋作 五代才助と初めて会談し意気投合する
  5月12日 高杉晋作 上海オランダ領事館訪問
  5月13日 高杉晋作 上海イギリス、ロシア領事館訪問
  5月18日 高杉晋作 上海古玩店で香炉を購入

  6月 8日 高杉晋作 五代才助を訪問 寺田屋騒動を知る
  7月14日 高杉晋作 長崎に入る
  8月11日 高杉晋作 江戸行きを命じられる
  8月22日 高杉晋作 大坂に入る
  8月24日 高杉晋作 京に入る
  8月28日 高杉晋作 長州藩主に清国の情勢を報告

閏 8月 2日 高杉晋作 江戸在勤を命じられる
閏 8月     高杉晋作 江戸に入る
閏 8月27日 高杉晋作 父に亡命する手紙を書置き江戸長州桜田藩邸を出奔し吉田松陰の墓参りをする
閏 8月28日 高杉晋作 加藤有隣に会う

  9月 3日 加藤有隣 桂小五郎に手紙を書き高杉晋作を迎えるよう願う
  9月12日 高杉晋作 江戸に戻る

  9月28日 高杉晋作 桂小五郎と会う
 11月12日 坂本龍馬 武市半平太、高杉晋作、久坂玄瑞と会見
 11月25日 高杉晋作 品川土蔵相模で同士13名と英国公使館焼討の血判を押す

 功山寺
功山寺
功山寺山門

功山寺
功山寺   下関市長府町川端

1991年5月5日撮影
高杉晋作 回天義挙の碑
功山寺決起、高杉晋作の決断により
 幕府崩壊の速度は雷電の如く速くなる。

高杉晋作 回天義挙銅像

高杉晋作 回天義挙銅像

文久三年 1863


  3月 1日 高杉晋作 江戸より京に向う
  3月 9日 高杉晋作 学習院御用掛の藩命のため京に入る
  3月15日 高杉晋作 休暇願受理される
  3月16日 高杉晋作 髷を切り東行と号す
  3月23日 高杉晋作 姉小路公知を訪問
  3月26日 高杉晋作 萩に向う

  4月 8日 高杉晋作 萩に帰国
  6月 4日 高杉晋作 下関防衛司令官に登用
  6月 6日 高杉晋作 白石正一郎邸に入り奇兵隊の編成開始
  6月 7日 高杉晋作 奇兵隊結成綱領提出 来島又兵衛、訪問
  6月 8日 奇兵隊発足
  6月13日 奇兵隊 阿弥陀寺、光明寺に転陣
  6月16日 毛利定広 壇ノ浦砲台、前田砲台、奇兵隊操練を視察後、隊士に酒肴を賜う
    同    奇兵隊 教法寺事件

  6月26日 高杉晋作 長州藩政務役人に就任
  6月27日 高杉晋作 奇兵隊総督に任命される
  8月 1日 奇兵隊 小郡秋穂村の移動命令を受ける
  8月 6日 奇兵隊 小郡に移動
  8月16日 高杉晋作 妻雅子宛に夫が死ぬれば操を立てよと遺書を書く

  9月15日 高杉晋作 奇兵隊総督を免じられる
  9月20日 高杉晋作 三田尻に入り三条実美に拝謁
 10月 1日 高杉晋作 奥番頭役を拝命 新知160石を給わる
 10月19日 高杉晋作 岩国で吉川経幹に謁見し毛利慶親の親書を渡す

 12月     山県狂介 奇兵隊軍監になる

元治元年 1864

  1月24日 高杉晋作 三田尻の来島又兵衛訪問
  2月     高杉晋作 京に入る
    ?    高杉晋作、中岡慎太郎 島津久光の暗殺を計画

  2月27日 高杉晋作 萩に戻る
  3月11日 高杉晋作 京より山口に向う
  3月25日 高杉晋作 山口に入る
  3月29日 高杉晋作 脱藩罪で野山獄入獄、入獄中に「獄中手記」を書く
  4月11日 高杉晋作 吉田松陰との思い出を「獄中手記」に書く
  4月14日 高杉晋作 「獄中手記」に和歌を書く
  4月23日 赤根武人 奇兵隊士を全員士分にと政事堂に願書を提出

  5月 5日 周布政之助 野山獄の高杉晋作を訪問
  6月21日 高杉晋作 野山獄を出て自宅謹慎
  6月27日 長州藩 藩論変わらず 井上聞多、高杉晋作訪問
  8月 3日 長州藩 高杉晋作の罪を許し手当用掛を命じる
  8月 4日 高杉晋作、伊藤俊輔 山口政事堂で和平交渉役を命じられる
  8月 5日 高杉晋作、伊藤俊輔 下関に向う途中船木で開戦を報せに山口に行く井上門多と会い山口に引き返す
  8月 6日 高杉晋作 藩命により下関に入る
  8月 8日 高杉晋作 長州藩筆頭家老、宍戸刑馬と称し英艦「ユリアラス号」でクーパー提督と交渉に入る
    同    高杉晋作、伊藤俊輔 船木の藩主に親書を出すようにと報告後、藩内攘夷派より逃れるため雲隠れ

  8月14日 高杉晋作 四ヶ国軍と交渉成立
  8月20日 中岡慎太郎 奇兵隊陣営を訪問
  9月     高杉晋作 杉梅太郎に近況を報告する手紙を書く

  9月16日 高杉晋作 藩政府に辞表を提出
  9月26日 高杉晋作 井上聞多を見舞った後、三田尻で山県狂介と会う
  9月30日 中岡慎太郎 奇兵隊陣営を訪問
 10月 5日 高杉晋作 長男、梅之助生まれる
 10月19日 奇兵隊 徳地に転陣、軍規「諭示」を定める
 10月21日 長州藩俗論派 奇兵隊及び諸隊に解散命令を出す
 10月25日 高杉晋作 福岡の野村望東尼を訪問
 11月 1日 高杉晋作 白石正一郎邸に入る
 11月 2日 高杉晋作 大庭伝七、中村円太と馬関を渡り月形洗蔵と会見

 11月17日 奇兵隊諸隊集結
 11月25日 高杉晋作 下関に潜入
 12月11日 高杉晋作 中岡慎太郎と会見
 12月13日 高杉晋作 長府奇兵隊屯所で山県狂介以下、隊士を説得
 12月14日 高杉晋作 80名で部隊編成、所郁太郎、中島作太郎、池内蔵太ら浪士も参加
 12月15日 高杉晋作 功山寺決起し馬関に進軍
 12月16日 高杉晋作 下関奉行所、三田尻海軍局、無血奪取 軍艦3隻を奪い馬関占領

 12月18日 山県狂介 奇兵隊を率い萩に進軍

 日柳燕石旧宅 呑象楼
日柳燕石旧宅 呑象楼

日柳燕石旧宅 呑象楼

日柳燕石 胸像

琴平町榎井

2002年 5月4日 撮影

日柳燕石 胸像

高杉晋作は、おうのを連れて燕石を頼る
日柳燕石旧宅 呑象楼

日柳燕石旧宅 呑象楼
松里庵跡

松里庵跡

慶応元年 1865


  1月 2日 高杉晋作 遊撃隊30名を率い下関会所を襲撃
    同    赤根武人 奇兵隊を脱走

  1月 5日 山県狂介以下、奇兵隊 絵堂を夜襲、俗論党軍、大半が逃亡
  1月10日 太田盆地 奇兵隊、俗論党軍を撃退
    同    中岡慎太郎 下関で高杉晋作と会見

  1月12日 奇兵隊 山口旧政治堂を占領
  1月14日 長州俗論党軍 反撃、奇兵隊には及ばず
  1月15日 高杉晋作 庶民兵300名を率い太田に向う
  1月16日 高杉晋作 赤村の粟屋隊を駆逐

    同    奇兵隊 休養のため山口に退く
  1月21日 奇兵隊及び諸隊 山口、湯田に会議所を設ける
  1月28日 萩城下に奇兵隊、軍艦「発亥丸」の空砲轟く

  1月30日 奇兵隊及び諸隊 萩に進軍を開始
  2月 1日 奇兵隊圧勝 俗論党軍撤退
  2月21日 長州藩 俗論党軍と奇兵隊、休戦協定成立
  3月24日 高杉晋作、伊藤俊輔 長崎に向う
  3月     長州藩 奇兵隊及び諸隊を十隊千五百人に定める

    ?    高杉晋作、伊藤俊輔 長崎グラバーより下関開港を進言される
    ?    高杉晋作 下関で藩内攘夷家に開港を求めるが功を得ず
  4月     高杉晋作 おうのと逃亡、琴平の日柳燕石を頼る

  6月     高杉晋作 帰藩
  6月10日 高杉晋作 白石正一郎邸訪問
  7月 7日 高杉晋作 桂小五郎と会見

  9月 6日 高杉晋作 用所役国政方になり下関駐在になる
  9月13日 高杉晋作 藩主に建白書を書く
  9月29日 高杉晋作 藩命で谷潜蔵に改名
 10月 2日 高杉晋作 木戸貫治と会見
 10月 3日 坂本龍馬 下関で高杉晋作、木戸貫治と会見、薩摩藩の兵糧米を依頼
 10月14日 坂本龍馬、木戸貫治、高杉晋作、井上聞多、伊藤俊輔 会談
 11月     岩城山の第二奇兵隊 待遇改善を要求


慶応二年 1866

  1月     高杉晋作 坂本龍馬に漢詩を記した扇とピストルを贈る
  2月27日 長州藩 高杉晋作、伊藤俊輔を親書伝達の使者として鹿児島に派遣することを下命する
  3月21日 グラバー 横浜より下関入港、高杉晋作、伊藤俊輔その船に便乗長崎に向う
  3月26日 高杉晋作 グラバーと会見

  3月     高杉晋作 グラバーより「丙寅丸」(オテントサマ)購入
  4月 3日 第二奇兵隊士 岩国領余田村の祭りで岩国農兵に乱暴

  4月 4日 高杉晋作 グラバーと会見
    同    岩国農兵隊 使者を第二奇兵隊に送り謝罪
    同    第二奇兵隊叛乱 武器庫を襲い書記楢崎剛十郎を射殺し大挙脱走

  4月 5日 清水美作 藩庁に第二奇兵隊余田村事件の報告書を提出
  4月 6日 長州藩山口藩庁に第二奇兵隊叛乱の報入る
  4月 7日 広沢藤右衛門 第二奇兵隊の動向を探るために山口を出発
    同    第二奇兵隊 備中西浦に入る

  4月10日 第二奇兵隊 倉敷代官所を襲撃し観龍寺に本営を置く
    同    浅尾藩家老 第二奇兵隊に来意を問う
  4月11日 第二奇兵隊 井上村宝福寺に入る
    同    浅尾藩上使 第二奇兵隊に退去を要求するが立石孫一郎丁重に拒否

  4月12日 第二奇兵隊 宝福寺退去と見せかけ備中浅尾陣屋夜襲占拠
    同    第二奇兵隊 岡山藩に支援を要請
  4月13日 長州藩 奇兵隊及び諸隊の脱走兵の捕縛を小倉津和野岡山に要請
  4月     長州藩 第二奇兵隊の編制改正を急ぐと共に槇村半九郎、林半七に脱走兵の処分案を委ねる

  4月14日 岡山藩 第二奇兵隊に正午に攻撃すると通告
    同    第二奇兵隊 黒崎上陸、幕府軍の奇襲を受け四散する

  4月22日 長州藩 高杉晋作、伊藤俊輔に洋行の許可を出す
  4月24日 第二奇兵隊 周防灘に戻る
  4月25日 第二奇兵隊脱走首謀者 立石孫一郎、引頭兵助 隊士達を上ノ関岩見島付近に残し室積誓教寺に入る
    同    立石孫一郎、引頭兵助 誓教寺住職に清水美作宛の訴願の書を届けさせる
         清水美作 立野で書面を受け取り直ちに捕縛を命令
  4月26日 立石孫一郎(大橋敬之助) 清水美作に会いに行く途中殺害される 引頭兵助、自害
  4月     岩見島の脱走第二奇兵隊 多数捕縛される

  5月 4日 高杉晋作 長崎より下関に入る
  5月29日 中岡慎太郎 高杉晋作と白石正一郎邸に入る
  5月     脱走第二奇兵隊処刑者 5月末までに約48名

  6月 4日 パークス 英艦三隻と鹿児島に向う途中、下関に寄港し高杉晋作、伊藤俊輔と会見
  6月12日 高杉晋作 「丙寅丸」で幕府海軍夜襲
  6月16日 坂本龍馬 下関に入り高杉晋作と会う

  6月17日 小倉口の戦い始まる 「桜島丸」門司を艦砲射撃 坂本龍馬、高杉晋作、村田新八観戦
  6月20日 坂本龍馬 白石邸で高杉晋作と会見後山口に向う
  7月 4日 木戸貫治 山口の様子を高杉晋作に手紙で知らせる
  7月20日 伊藤俊輔 大村藩士、渡辺昇と下関に入り高杉晋作に紹介
  8月 3日 高杉晋作 小倉城大手門に長州藩旗を掲げさせた後、下関に戻る
  8月 7日 中岡慎太郎 広寿山奇兵隊陣営を訪問

  8月11日 中岡慎太郎 白石正一郎邸で高杉晋作と会談
  8月12日 中岡慎太郎 高杉晋作と船で門司に向う
  8月25日 中岡慎太郎 門司の奇兵隊陣営を訪問

  8月26日 木戸貫治 白石正一郎邸の高杉晋作を訪問
  9月16日 高杉晋作 野村望東尼の救出を手配
 10月 2日 高杉晋作 木戸準一郎に血を吐いた事を手紙で知らせる
 10月20日 高杉晋作 職を免じられる
 10月27日 高杉晋作 桜山招魂社下の個室で療養
 12月20日 長州藩 高杉晋作を解職し完全療養を命じる

 高杉晋作終焉の地
高杉晋作終焉の地 下関市

1991年5月4日撮影


歴史上の人物で高杉晋作と
同じ病気で他界した人は
どれくらいいるのだろうか
もし、この病気そのものが無かったら
歴史は、間違いなく変わった。
高杉晋作、木戸孝允、沖田総司
この三人が、年老いて
当時を振り返り酒を酌み交わす。
考えるだけでも
何故かワクワクしてしまう。
でも、この病気が無ければ
この三人が歴史上に登場したかは
分からない。
 高杉晋作の墓(東行庵)
高杉晋作の墓

高杉晋作の墓
高杉晋作 銅像

下関市 東行庵

1991年5月5日撮影




おもしろきこともなき世をおもしろく

高杉晋作の人生は、果たして、おもしろかったのでしょうか
この詩は、英雄高杉晋作を作りだすための
創作だったとの意見もあるのですが
この詩ほど高杉晋作の心意気を表す言葉は
他に無いような気がします。
伊藤博文の「動かば雷電の如く」の表現も
的確だと想い好きなのですが

慶応三年 1867


  1月 5日 中岡慎太郎 高杉晋作を訪問 坂本龍馬 中岡慎太郎を訪問
    ?    高杉晋作 林算九郎宅離れに移る
  3月21日 中岡慎太郎 高杉晋作を訪問するが病重く会わずに帰る
  3月29日 高杉晋作 藩主の好意により谷家を立てる
  4月14日 高杉晋作(29歳)病没
  4月16日 高杉晋作 葬儀
  6月     第二奇兵隊脱走者 櫛部坂太郎、桜井軍記 伊予西条で捕縛される
 11月18日 第二奇兵隊脱走者 櫛部坂太郎、桜井軍記 斬首される


明治元年 1868

  3月     山県狂介 奇兵隊主力を率いて京に入る
  4月     山県狂介 奇兵隊を率い江戸に入る

明治二年 1869

 11月11日 奇兵隊日記 筆が折られる
 12月     奇兵隊及び諸隊からの脱走者が続出


明治三年 1870

  1月22日 奇兵隊脱走兵反乱
  1月27日 木戸孝允 奇兵隊脱走兵に命を狙われる
  2月 7日 長州藩 奇兵隊脱走兵壊滅のため藩兵一大隊の帰藩を願い出る
  2月 8日 長州奇兵隊脱走兵討伐軍 下関を出発
  2月10日 長州奇兵隊脱走兵鎮圧される
  2月25日 長州藩 奇兵隊叛乱に隊外より参加した支家の三名に切腹を命じる
  3月30日 長州奇兵隊脱走兵の処分決まる
  4月 3日 長州奇兵隊脱走兵の残党 熊毛郡平生村の武器庫を襲い寺院に立てこもる
  4月     長州奇兵隊脱走兵の残党 鎮圧される
  4月15日 長州奇兵隊脱走兵の首魁 吉村駒之助切腹
  8月 7日 長州奇兵隊脱走兵 秋月孝太郎、井上三郎、植木関馬、三田尻で斬罪梟首
  8月14日 長州奇兵隊脱走兵 内藤又兵衛、間島彦太郎他十数名を河田原で斬首
  8月29日 長州奇兵隊脱走兵 湊秀蔵、徳永昇輔ら十一名を丁者原で斬罪梟首
 10月 6日 長州奇兵隊脱走兵 末森十郎、伊藤本蔵ら十名を舟木妻埼で斬罪梟首
 12月17日 長州奇兵隊脱走兵 原熊、槌堀克三郎ら八名を斬罪梟首

明治四二年 1909

  9月     伊藤博文 高杉晋作の碑文を書く

 高杉晋作顕彰碑
高杉晋作顕彰碑 高杉晋作顕彰碑  下関市吉田町東行庵

1991年5月5日撮影





伊藤博文は、この碑文を書いた後に暗殺される。

除幕式を高杉晋作と一緒に眺めていたのでしょうか

明治四四年 1911

  5月20日 下関吉田町、高杉晋作顕彰碑除幕式 井上馨参列


大正十一年 1922

    ?    高杉雅子(78歳)死亡 東行庵に墓

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