吉田松陰 年表 
baku 幕末年表 matu より 吉田松陰と杉家、松下村塾の項目を抜粋しました。

天保元年 1830


  8月 4日 吉田松陰 萩に生まれる

天保五年 1834

    ?    杉大次郎 叔父吉田大助の養子となる

天保六年 1835

    ?    吉田大助 病死、吉田松陰、吉田家の当主となる
    ?    玉木文之進 吉田松陰の無給教師となる

天保九年 1838

    ?    吉田松陰(8歳) 藩校明倫館の見習教授となる

天保十年 1839

    ?    吉田松陰 藩校明倫館で山鹿流兵学の講義を始める

天保十三年 1842

    ?    玉木文之進 松下村塾を開く

天保十四年 1843

    ?    玉木文之進 官職につくため松下村塾閉鎖

天保十一年 1840

    ?    吉田松陰 藩主毛利敬親に山鹿流兵学の講義をする

嘉永元年  1848

 10月     吉田松陰(18歳)長州藩学制改革の意見書を藩主に提出

嘉永二年 1849

  6月     吉田松陰 長州藩内の海岸を巡視
  7月     桂小五郎 吉田松陰の兵学門下となる
 10月 1日 桂小五郎 松下塾入門
 10月10日 吉田松陰 城東羽賀台で藩重臣 益田弾正を大将とした実地演習を行う


嘉永三年 1850

  5月27日 吉田松陰 藩主に講義
  8月20日 吉田松陰 藩主に「籠城大将の必定の条」を講義
  8月23日 吉田松陰 平戸葉山佐内のもとへ最初の旅に出る
  8月26日 吉田松陰 下関に入る
  8月27日 吉田松陰 発熱
  8月29日 吉田松陰 関門海峡を渡る

  9月 5日 吉田松陰 長崎長州藩邸に入る
  9月11日 吉田松陰 長崎出発
  9月14日 吉田松陰 平戸城下に入り葉山佐内と会う
  9月18日 吉田松陰 山鹿万助と会う

 11月 6日 吉田松陰 平戸を出発
 12月     吉田松陰 熊本で池辺啓太、宮部鼎蔵に会う
 12月29日 吉田松陰 松本村に帰る


嘉永四年 1851

  1月15日 吉田松陰 藩主毛利慶親に山鹿流兵学皆伝を授ける
  2月12日 吉田松陰 藩主毛利慶親に孫子を講義
  2月20日 吉田松陰 藩に「文武稽古万世不朽」の長文の意見書を上書
  3月 5日 吉田松陰 中谷正亮と江戸に向かう
  3月18日 吉田松陰 湊川で楠木正成の墓に参拝

  4月 9日 吉田松陰 江戸長州桜田藩邸に入る
    ?     吉田松陰 佐久間象山に入門
  6月10日 吉田松陰 宮部鼎蔵らと鎌倉に向かう
  6月22日 吉田松陰 江戸に帰る
  7月16日 吉田松陰 長州藩に東北旅行願い提出

 12月14日 吉田松陰 友人との約束を守るため脱藩水戸に向かう 来原良蔵が罪を被る
 12月19日 吉田松陰 水戸に入る


嘉永五年 1852

  1月20日 吉田松陰 会津、新潟、佐渡、秋田、弘前、青森、盛岡、仙台、米沢、日光、足利、館林などを遊歴するため水戸出発
  4月 5日 吉田松陰 江戸に入る
  4月18日 吉田松陰 江戸出発
  5月11日 吉田松陰 山口着
  5月12日 吉田松陰 萩着

 12月 9日 吉田松陰 長州追放罪になる士籍剥奪、家禄没収

嘉永六年 1853

  1月16日 吉田松陰に10年間の他国遊学の許可出る
  1月26日 吉田松陰 遊歴の旅に出る
  2月10日 吉田松陰 大坂に入る
  2月23日 吉田松陰 五条、森田節斎と会う

  5月10日 吉田松陰 伊勢、斎藤拙堂を訪問
  5月24日 吉田松陰 江戸練兵館、斉藤新太郎を訪問

  6月 3日 吉田松陰 佐久間象山塾に入る
  6月 4日 吉田松陰 黒船来航を知り瀬能吉次郎に手紙を書く
  6月 5日 吉田松陰 浦賀へ向かう

  6月     吉田松陰 長州藩主に「急務発議」の意見書を建言
     ?     吉田松陰 藩主に意見書「将及私語」を提出

  8月 8日 吉田松陰 杉梅太郎に幕軍の姿を嘆く手紙を書く
  9月18日 吉田松陰 長崎に向かうため江戸出発 ロシア密航を企てる
 10月 1日 吉田松陰 京に入る
 10月19日 吉田松陰 熊本城下に入る

 10月27日 吉田松陰 長崎に入るが時すでに遅し
 11月13日 吉田松陰 萩に入る
 11月24日 吉田松陰 宮部鼎蔵と共に萩を出る
 12月 3日 吉田松陰 大坂に入る
 12月 4日 吉田松陰 京に入る
 12月 8日 吉田松陰 京を出る

 12月27日 吉田松陰 江戸に入る

 吉田松陰 寓寄処
吉田松陰 寓寄処

吉田松陰 寓寄処 入場券
吉田松陰 寓寄処

吉田松陰 寓寄処

吉田松陰 寓寄処  下田市蓮台寺

2000年10月8日撮影
吉田松陰 寓寄処 吉田松陰 寓寄処
 下田弁天島洞窟
吉田松陰 下田弁天島洞窟

下田市柿崎

2000年10月7日撮影
吉田松陰 金子重輔銅像
吉田松陰 下田弁天島洞窟

吉田松陰 下田弁天島洞窟

吉田松陰 下田弁天島洞窟

吉田松陰 下田弁天島洞窟

吉田松陰 銅像   吉田松陰が、この密航に成功していれば
幕末の歴史は大きく変わったでしょう。
松陰の松下村塾も存在しなかったかもしれません
そうなると伊藤博文も山県有朋も
歴史の舞台に立てなかったのではないでしょうか
 吉田松陰拘禁の跡
吉田松陰拘禁の跡 吉田松陰拘禁の跡

吉田松陰拘禁の跡   下田市

2000年10月8日撮影

安政元年 1854


    ?    吉田松陰 長州藩主に意見書「海戦策」を提出
  3月 5日 吉田松陰 友人と別離の宴の後江戸を出発横浜に向かう
  3月 6日 吉田松陰 保土ヶ谷でペリーに渡す手紙を書く
  3月18日 吉田松陰 下田に入る
  3月25日 吉田松陰 弁天島の祠に入る
  3月27日 吉田松陰 上陸中の米水夫に手紙を託す「投夷書」

  3月28日 吉田松陰 黒船への密航失敗 下田奉行所に自首、拘禁される
    ?    ペリー 下田奉行所に吉田松陰に対する処置を寛大にするように申し入れる

  4月10日 吉田松陰 金子重輔と手錠、足かせで江戸に送られる
  4月11日 杉梅太郎 長州江戸藩邸で謹慎
  4月15日 吉田松陰 北町奉行所で取り調べを受けた後、伝馬町の獄に入る
  4月29日 杉百合之助 蟄居謹慎
  5月11日 杉梅太郎 萩に入り謹慎

  9月18日 幕府 吉田松陰に国許で蟄居の栽決(老中、阿部正弘及びペリーの配慮といわれている) 
  9月23日 吉田松陰 金子重輔、檻籠に入れられ萩に向かう

 10月24日 吉田松陰 萩の野山獄、金子重輔、岩倉獄に入る
 11月     杉梅太郎 謹慎を解かれ郡奉行勤務を拝命

安政二年 1855

  1月11日 吉田松陰の弟子 金子重輔(25歳)岩倉獄で病死
  3月     吉田松陰 「士気七則」を書き甥の玉木彦助の元服祝いに与える
 12月15日 吉田松陰 野山獄を出、松本村自宅蟄居

 松下村塾
松下村塾

萩市椿東松本   松下村塾

1989年8月13日撮影

吉田松陰は多くの人材を歴史の舞台に送り込んだ
吉田松陰
吉田松陰 肖像画

安政三年 1856


  5月     久坂玄瑞 吉田松陰に手紙を送る
  8月22日 吉田松陰 幽室で孟子の講義を始める
  9月 4日 吉田松陰 「松下村塾記」を書く

 10月     吉田栄太郎(稔麿) 松浦亀太郎(松洞)松下村塾入門
 10月14日 吉田松陰の釈放運動により野山獄の過半数釈放される

 12月18日 梅田雲浜 京より萩に入り吉田松陰と会見、松下村塾の額面を書く

安政四年 1857

  9月     品川弥二郎 松下村塾入門
  9月 3日 吉田松陰 「煙管を折るの記」を書く

 11月 5日 松下村塾納屋を改造し増築
 11月12日 入江九一 松下村塾入門
 12月     久坂玄瑞 吉田松陰の妹、文と結婚

安政五年 1858

    ?    伊藤利助 萩に戻り松下村塾に出入りを始め俊輔と名乗る
  1月 6日 吉田松陰 「狂言の言」を書き藩主に上呈
  3月11日 松下村塾増築完成
  4月13日 高杉晋作 吉田松陰に遊学希望の手紙を書く
  7月 1日 吉田松陰 松下村塾生の軍事調練をする
  7月 5日 吉田松陰 周布政之介に高杉晋作の江戸遊学を推薦する手紙を書く
  7月11日 吉田松陰 条約調印を知る
  7月13日 吉田松陰 「大義ヲ議ス」を書き幕府を討滅誅戮せよと主張
  7月18日 吉田松陰 萩郊外大井浜で軍事調練 勅諚降下を知る
  7月20日 吉田松陰 長州藩家学教授の指令出る

  9月23日 吉田松陰 梅田雲浜逮捕を知る
 10月     山県狂介 松下村入門
 11月 6日 吉田松陰 藩重臣、周布政之助に大砲、弾薬の供与を願い出る手紙を書く
 12月11日 高杉晋作、久坂玄瑞 連名で吉田松陰に手紙を書く
 12月26日 吉田松陰 野山獄に投獄される

安政六年 1859

  1月11日 吉田松陰 間部詮勝の暗殺自重せよとの高杉晋作、久坂玄瑞らの手紙を読む
    同    吉田松陰 死の意義についてと忠義よりも功業なのかと某に宛て手紙を書く

  2月15日 吉田松陰 高杉晋作に手紙を書く
  4月14日 吉田松陰 野村和作に藩を相手にしたのは一生の誤りと手紙を書く
  4月19日 長州江戸藩邸に幕府より吉田松陰を江戸に送れの命令届く
  4月21日 長井雅楽 吉田松陰に対する命令伝達のため長州江戸藩邸出発
  5月13日 長井雅楽 江戸より萩に入り吉田松陰の召還状を届ける
  5月14日 長州に吉田松陰、江戸送りの一報入る
  5月16日 松下村塾門人 松浦松洞(無窮)吉田松陰の肖像画を八枚書く、内六枚は現存
  5月24日 吉田松陰 一夜だけ杉家に帰る
  5月25日 吉田松陰 江戸に向う

  6月25日 吉田松陰 長州藩江戸屋敷に入る
  7月 9日 吉田松陰 幕府評定所に入り評定後、伝馬町の獄に入る
  7月     吉田松陰 高杉晋作の死生観の問いに手紙で答える
  9月 5日 吉田松陰 吟味
 10月 5日 吉田松陰 吟味
 10月16日 吉田松陰 吟味
 10月17日 高杉晋作 藩命で江戸より萩に向う前に桂小五郎と会見
 10月20日 吉田松陰 遺書を書く、父、叔父、兄に「永訣の書」
 10月25日 吉田松陰 「留魂録」を書く (萩、松陰神社に保管)
 10月27日 吉田松陰(30歳)伝馬町獄舎で処刑される

 10月29日 桂小五郎、伊藤俊輔、飯田正伯、尾寺新之允 吉田松陰の遺体を千住回向院に埋葬
 11月26日 高杉晋作 周布政之助に吉田松陰の仇は討つと手紙を書く
 11月27日 高杉晋作、久坂玄瑞 吉田松陰の霊を弔う
 吉田松陰終焉の地
吉田松陰終焉之地 十思公園

吉田松陰終焉之地

吉田松陰辞世の碑
吉田松陰辞世の碑


吉田松陰終焉之地 十思公園

東京都中央区小伝馬町

2010年10月29日撮影
吉田松陰終焉之地碑
吉田松陰終焉之地碑

吉田松陰顕彰碑
吉田松陰顕彰碑

万延元年 1860

  2月 7日 吉田松陰 没後百日に遺言通り「二十一回猛子」の墓、誕生地に遺髪を埋葬して建つ
  8月28日 高杉晋作 東北遊歴に出る 小塚原で吉田松陰の墓参をする
 10月27日 高杉晋作 吉田松陰の教えを実践できぬことを嘆く七言絶句を書く

文久二年 1862

閏 8月27日 高杉晋作 父に亡命する手紙を書置き江戸長州桜田藩邸を出奔し吉田松陰の墓参りをする

文久三年 1863

  1月 5日 吉田松陰の遺骨を千住回向院から世田谷大夫山に移す

 世田谷 松陰神社
松陰神社

松陰神社

吉田松陰墓地
綺麗な花が供えられていた。

松下村塾
萩の松下村塾が此処にも

木戸孝允鳥居
明治元年に木戸孝允が
墓地を修復したときに寄進した鳥居。


松陰神社

東京都世田谷区若林4丁目
松陰神社道

吉田松陰銅像
吉田松陰銅像

松下村塾

吉田松陰墓
吉田松陰の墓

元治元年 1864

  4月11日 高杉晋作 吉田松陰との思い出を「獄中手記」に書く

慶応元年 1865

 10月25日 桜山招魂社で吉田松陰の招魂祭

明治元年 1868

    ?    木戸準一郎 大夫山の吉田松陰墓地を修復し鳥居を寄進

明治十五年 1882

 11月21日 松陰神社祭典


明治二二年 1889

  2月11日 大赦により西郷隆盛の賊名が解かれ正三位、藤田東湖、佐久間象山、吉田松陰正四位を追贈、江藤新平罪を許される
 奉拝鳳闕詩石碑
奉拝鳳闕詩石碑

奉拝鳳闕詩石碑

嘉永四年(1851)湊川神社へ参詣したときの詩


京都市左京区府立図書館

2005年4月24日撮影
奉拝鳳闕詩石碑
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