河井継之助 年表
baku 幕末年表 matu より 河井継之助と長岡藩の項目を抜粋しました。

文政十年 1827


  1月 1日 河井継之助 長岡に生まれる

天保十一年 1840

  1月     長岡藩主、牧野忠雄 京都所司代に就任

天保十三年 1842

  4月     河井継之助 元服

天保十四年 1843

 11月     長岡藩主、牧野忠雄 老中になる

嘉永三年 1850

    ?    河井継之助 すがと結婚

嘉永五年 1852

    ?    河井継之助 江戸に留学
    ?    河井継之助 長岡に帰国

安政四年 1857

  8月23日 長岡藩主、牧野忠雄(60歳)病没
 10月25日 牧野忠恭 長岡藩主となる
河井継之助
河井継之助

安政五年 1858

 10月17日 河井継之助 品川遊郭事件
 12月28日 河井継之助 江戸遊学に出発、塵壺を書き始める

安政六年 1859

  1月 6日 河井継之助 江戸に入り、古賀塾(久敬舎)に入る
    ?    河井継之助 父、代右衛門隠居により家督を継ぐ
  6月 4日 河井継之助 久敬舎退塾
  6月 7日 河井継之助 江戸出発、備中松山に向う

  7月14日 河井継之助 赤穂に立ち寄る
  7月16日 河井継之助 松山に入る
  7月17日 河井継之助 備中松山藩、山田方谷に入門
  9月26日 河井継之助 岩国の錦帯橋を見物

 10月 5日 河井継之助 長崎に入る その後、熊本、四国を遊歴
 11月 3日 河井継之助 松山に戻る

万延元年 1860

    ?     河井継之助 山田方谷のもとを去り江戸に向う

文久元年 1861

    ?    河井継之助 越後長岡帰国

文久二年 1862

  8月24日 長岡藩主、牧野忠恭 京都所司代を命じられる
  9月15日 長岡藩主 牧野忠恭、京に向う
  9月29日 越後長岡藩主 牧野忠恭、京都所司代として入京
 10月 1日 牧野忠恭 参内し孝明天皇に拝謁、天盃を頂く
    ?    河井継之助 京に入り長岡藩主に京都所司代辞任を説く


文久三年 1863

    ?    河井継之助 京を出、長岡に向う
  6月21日 長岡藩主、牧野忠恭 京都所司代を辞任し江戸に向う
  9月13日 長岡藩主、牧野忠恭 老中に任じられ外国事務取扱を命じられる

    ?    河井継之助 江戸に行き長岡藩主に老中辞任を説く
    ?    河井継之助 辞表を提出し長岡に戻る
    ?    長岡藩主、牧野忠恭 老中辞任を承認され長岡に戻り河井継之助を再び登用


慶応元年 1865

     ?   河井継之助 長岡藩外様吟味役になる
 10月13日 河井継之助 長岡藩郡奉行に栄進

慶応二年 1866

  3月     河井継之助 長岡藩中ノ口川御普請掛になる
 11月     河井継之助 長岡藩御番頭格郡奉行兼帯になる

慶応三年 1867

  4月     河井継之助 長岡藩寄合組、御奉行格になる
    ?    新潟港に長岡藩の武器届く
  7月     長岡藩主、牧野忠恭 忠訓に家督を譲る

 10月     河井継之助 長岡藩御年寄役になる
 11月     河井継之助 江戸に出、長岡藩の禄高制度を抜本的に改革
 11月25日 長岡藩主、牧野忠訓 河井継之助他60数名を連れ幕府軍艦「順動丸」で大坂に向う
 11月29日 長岡藩主、牧野忠訓 幕府軍艦「順動丸」で兵庫入港し西宮で宿泊
 11月30日 長岡藩主一行 大坂堂島の長岡藩蔵屋敷に入る
 12月15日 長岡藩主 政権を徳川家に戻すべきとの提言のため大坂城登城
 12月18日 長岡藩 ミニエール銃を払い下げる
 12月19日 長岡藩主 牧野忠訓入洛

 12月22日 河井継之助 御所に建白書上呈
 12月29日 長岡藩主 牧野忠訓大坂に入る

明治元年 1868

  1月 7日 長岡藩主一行 大坂を脱出
  1月23日 長岡藩主一行 江戸に入る
  2月20日 長岡藩主、牧野忠訓 江戸を出発し長岡に向う
    ?    河井継之助 長岡江戸藩邸を処分し武器購入のため横浜に向う

  3月 1日 長岡藩主、牧野忠訓 長岡に帰国
  3月 3日 河井継之助 会津兵、桑名兵と「カガミノ号」で横浜出港、途中箱館で米売却
  3月24日 河井継之助 長岡帰藩、上席家老(執政)になる
  4月 1日 河井継之助 長岡藩士に総登城を命じる
  4月 4日 北越六藩同盟を結ぶが長岡藩は拒否
            北越には、高田15万石、新発田10万石、長岡7万4千石、村上5万1千石、村松3万石、与板2万石
            三根山1万5千石、三日市1万石、黒川1万石、糸魚川1万石、椎谷1万石の11藩がありました

  4月14日 河井継之助 長岡城下中島で藩兵の大調練を行う
  4月17日 河井継之助 長岡城で藩士に武装中立を表明
閏 4月19日 黒田了介、山県狂介、岩村清一郎 高田で会談、長岡城攻略を作戦の目標にする
閏 4月26日 河井継之助 長岡藩軍事総督になる
閏 4月28日 佐川官兵衛 長岡藩本陣光福寺に河井継之助を訪問
  5月 2日 慈眠寺 小千谷談判
  5月 3日 河井継之助 開戦を決意
  5月 4日 長岡藩 奥羽列藩同盟参加
    同    佐川官兵衛 光福寺の河井継之助を訪問し同盟を確認
  5月 6日 町野源之助 摂田村長岡軍本営光福寺で河井継之助、佐川官兵衛に会う

  5月10日 長岡軍 榎峠奪取
  5月16日 北陸道軍 長岡城下を砲撃
  5月19日 新政府軍 長岡に乱入、長岡城落城、長岡軍、藩主親子を会津に送り栃尾に退く
  5月29日 河井継之助 加茂に長岡諸隊を集め長岡城奪回の決意を語る
  5月30日 長岡軍 長岡奪回に向け行動を開始
  6月 1日 佐川官兵衛隊 長岡軍に合流
  6月 2日 長岡軍 今町の新政府軍を撃破

  6月 7日 長岡軍 中之島村、大口村急襲
  6月12日 小島龍三郎 「討薩の激」を河井継之助、佐川官兵衛に示し奥羽越の正式声明文として採択される
  6月14日 長岡、会津軍 大黒の新政府軍を奇襲
  6月22日 長岡、会津、米沢軍 福島村の新政府軍急襲
  7月17日 同盟軍栃尾で軍議 河井継之助、長岡城回復の奇策を出し本営を見附に進める
  7月     河井継之助 佐川官兵衛と町野源之助を連れ八丁沖を検分するため福井村に行く

  7月24日 長岡軍夜襲八町沖渡河部隊612名 栃尾を進発
  7月25日 八町沖渡河戦 長岡軍、長岡城奪還、新政府軍猛反撃、河井継之助左足着弾重傷
  7月26日 会津、米沢藩兵 長岡城入城
    同    佐川官兵衛、町野源之助 長岡城の河井継之助を見舞う
    同    河井継之助 長岡軍野戦病院の城下東部昌福寺に移される

  7月28日 新政府軍 長岡城猛攻撃
  7月29日 新政府軍 長岡占領 長岡軍退却会津に向う
  8月 2日 長岡軍 八十里越え
  8月     会津桑名長岡の諸隊、水戸脱走諸生党、衝鋒隊 会津領蒲原郡小松村に兵を退く

  8月 5日 長岡軍 只見村に入る
  8月11日 河井継之助 会津塩沢村の矢沢家に入る
  8月12日 長岡軍 会津塩沢村に入る

  8月16日 河井継之助(42歳)死亡
  9月 4日 町野源之助 館ノ原で長岡兵の来援を受け河井継之助の死を知る
  9月 8日 長岡藩隊長、山本帯刀(24歳) 飯寺村で捕縛斬首される

  9月23日 牧野忠訓 米沢で総督府に降伏

明治二年 1869

  6月     エドワルドスネル 新潟を再訪し牧野忠訓に手紙を提出

明治二三年 1890

  8月     三島中州により長岡に河井継之助の碑建立される

平成十八年 2006

12月27日  河井継之助記念館 長岡の生家跡に開設

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